パンだ

ゆるくまったりと好きなことを好きなように

ここのところの鬱屈したネガティブ感情

気にするなと言われても気になってしまって、気にしてしまう自分がイヤだから気にしないようにしたくても、結局気にすることを気にしないようにできない自分が気になってしまって、悪循環に陥って抜け出せないことが多々ある。

 

よく読むブログ主さんがいた。身内や職場とかのオフの繋がりではなく、TwitterInstagramでフォローしたりというわけでもないけれど、ブログをブックマークに入れていて今日は更新しているかなーと訪問するような感じ。

それがあったのはちょうど入籍した頃で、それをツイートしていて、いつもはふーんどうでもいいやとスルーするパートナーとか結婚とかそういう話に敏感になってしまっていたんだと思う。

ほんと、タイミングとかたまたまとか偶然ってときどき酷い。

 

「△△できないって言うけど□□できてるじゃん」と書かれているのを見て、思った以上に強い力で殴られたようで、しんどくなってしまった。なんでしんどくなったのか、その時はわからなくてしばらく「???」状態だったんだけど、最近うっすら見えてきた。

「□□できたら、△△できないって言うのはだめなの? △△できなくて苦しくてイヤになってるのは甘えなのかな? 自己満足のために自己嫌悪に浸っているだけ?」みたいに、自分のツラさを無いものにされたと私は受け取ってしまったみたいだ。身内や知り合いでもない人にツラさを否定されたところで、いつもなら別にどうでもいいはずなんだけど、時期的に悪いタイミングだったんだろう。当然ながら向こうは私のことなんか知る由もないから結局は私が勝手にショックを受けているだけ。

自分の考え方ひとつの問題だと、自分で自分のしんどさやモヤモヤと決着つけなきゃいけないから厄介だと思う。

 

私は、結婚するのも普通、結婚しないのも普通、子供を作るのも作らないのも、離婚するのも離婚しないのも、別に何だって普通じゃないのか、と思っている。普通とか普通じゃないとかにこだわるのって苦しい。

自分自身を縛っているのは「これは普通」「これは普通じゃない」という自分のその思い込みなんじゃないのか? とも思ってしまうし、普通・普通じゃない・人並み・当たり前にがんじがらめになっている人ってもしかして無意識下で普通じゃない自分をどこか特別視しているのかな、とさえ思ってしまう。「自分はひとりで生きていける」みたいな感じで……もちろんそれが望んでか望まずかは当の本人にしかわからないし、苦しさもわからない。でも、うまく言えないけど、見下されていると思っているようで見下しているというか、羨むのではなく……ううんうまく言えない。

……とか言うけれど、普通のことを普通にできないというのはしんどいっていうのもわかる。難しい。こういうことって他人を指差しているつもりが自己紹介しているよね。

 

とか色々しんどくって感情の起伏が激しい自分に自分が振り回されているうちに引っ越して2ヶ月ぐらいが過ぎた。家事を共同ですることにうまく対応できなくて辛かったり、職場でも家でも1人じゃなくて誰かが居ることに疲れてしまったり、全然ちゃんとできなかった。

29歳になってここまで連日人前で涙が出るとは思わなくて情けなくて情けなくてもしかして同居は失敗だったのかとも考えてしまうこともあった。実際に選べるかどうかは置いといて、別居婚という選択肢もあったな、とか。

夫もだいぶキツいと思う。感情の起伏がジェットコースターみたいな人間が居るんだもの。こっちも泣きたくて感情を荒立たせたくているわけじゃないんだけど、自分でどうにも制御できない。そういうときって大体コミュニケーションができていないし。伝えたくて喋りたくても、頭の中はたくさんたくさん言葉が渦巻いているのに、それを捕まえて声にのせることができない。黙ってしまって、不甲斐なくて情けなくて、こんなのはイヤだ、と思うと、そう思えば思うほど、喉は締まって内臓もキュウキュウして、泣きたくなんかないのに自分の意志と無関係に涙が流れてしまう。

先日はついに「どうしてそんなクシャクシャな顔してるの?」と心配してくれた夫に「私だってわかんない」「ちゃんとしたいのに全然できない」と普通のことを普通にできない自分に対する苛立ちを爆発させてしまった。

失格だ、こんなの。

 

これまでの経験から、寒い時期にメンタルよわよわお豆腐ちゃんになりやすいのがなんとなくわかってきたから、気持ちの切り替えを早くできる方法をいくつか用意しておくことにする。あと、失敗したくない、というこれまでの思考回路はやめて、しくってもいいからリカバリーできればおk的な考え方に軌道修正したいねー。