パンだ

ゆるくまったりと好きなことを好きなように

私は私自身のために

2020年、新たな三冠馬が2頭誕生した。そのうちの1頭であるコントレイルは私の観測範囲内では様々な人が自らの感情を託していたように思う。競走馬自身への思いか、血統への熱量か、厩舎か、騎手か、それとも今の世情を反映してか。己の感情を託した理由は人それぞれだろうが、ともかく例年の菊花賞とは雰囲気が異なるように感じていた。

 

そんな菊花賞でコントレイルが勝利を収め、三冠馬となった時。私のタイムラインに2つのツイートが並んだ。「信じる」ことに対する思いをのせたツイートだった。

 

そのうちの1つから部分的に引用する。"無条件に「信じる」ことができる馬" ――はたして私はそういう競走馬に出会ったことがあるだろうか。思い出深い競走馬は何頭も挙げられるが、そのうちのナリタポセイドンも、キタサンミカヅキも、マルターズアポジーも、勝ち続けたわけではない。距離適性や色々な要素を超えて信じることができていたかと問われれば、情けない話ではあるが、答えはNOだ。

 

それでも、1頭、存在する。存在していた。

フォーマイセルフだ。

 

たった3回の出走で生涯を終えた競走馬。言い換えれば3回しか走っていない。こうして書くと、3回という数字はその競走馬の能力を判断するには少ないだろう。だが、フォーマイセルフはそんなことを蹴り飛ばして私の「信じる」という行為を託すに十分に値する競走馬だった。とうの彼は、思いを託したまま遠いところへ駆け抜けていってしまったが。

 

フォーマイセルフは新馬戦で2着、2戦目の未勝利戦で勝ち上がり、3戦目の1番人気に推された条件戦で競走中止予後不良となった。競馬にたらればはNGだと私自身思っているが、それでもフォーマイセルフに関しては無事だったらどこまでいけていたのだろうかと考えてしまう。新馬戦から手綱をとった武士沢騎手とのコンビで、兵庫チャンピオンシップジャパンダートダービー……ダートグレード競走に名を連ねる1頭になっていたのではないだろうか。そんなことを考えずにはいられない。今もなお、フォーマイセルフが走り続けていたらと夢想してしまう。

 

もしもの話だが、フォーマイセルフが最後の直線で、私の目の前で骨折を発症していたら現実を受け入れざるを得なかったのかもしれない。武士沢騎手が下馬して、微塵も想像したくはないがフォーマイセルフの脚は……という状況をこの目で一瞬でも見ていたら、今のこの感情は無かったのかもしれない。だが、フォーマイセルフは私が見届けられなかった場所で骨折を発症し、2018年3月3日の中山4R、発走してその背中を見届けた以降、私の前に姿を現していない。安楽死になったのはわかる。知っている。理解している。それでもなお、その決定的な瞬間を見ていない私は楽観的な妄想を捨てられずにいる。

 

だってフォーマイセルフは強いと思ったんだもん。

ぶっしーとどこまででもいける、勝てると思ったんだもん。

 

この思いは前出の方がツイートした"無条件に「信じる」ことができる馬"に該当するのかどうか。それはわからないが、それでも私にとっての距離適性や過程を飛び越えて「信じる」ことができる競走馬はフォーマイセルフ、ただその1頭だ。

 

フォーマイセルフが安楽死処分となったことがわかったとき、私は「この先も競馬観ていられるのかな」と考えた。だが、そんな思いはどこへいったか、今もなお競馬を観続け、武士沢騎手を応援している。これは一体どういうことなのだろうか。これもまたとあるツイートからの引用だが、どういうことなのかという問いに対して「今日答えは出なくてもいつか言葉が見つかる日がくれば良い」と思う。その日まで、私は競馬を観続けるのだろう。他の誰でもない、私自身のために。

 

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