パンだ

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武士沢の件

「武士沢」と付く地名を巡った記録を、かつてブログ記事としてアップしたことがある。その記事内で自分はこう記している。

武士沢という地

2007年5月8日の河北新報『とうほく 地名の泉』で青森県三戸町の武士沢は「トリカブト採取する沢」と紹介されている。地名は漢方薬の附子=トリカブトからではないか、という。また、寛政年間の史料には「斗内村支村十四軒毒沢」と記されていたが、明治年間の史料には「斗内村の小字として武士沢」とあるらしい。同記事ではこの違いについて「明治の初めころに「毒沢」を忌み嫌い「武士沢」に変えたのだろう」と書いている(別の資料では、享和3年の仮名付帳では「毒沢一〇」、明治初年の新撰陸奥国誌では「毒沢一七」とあるみたいなので、武士沢はかつて毒沢であったのだろうと思うが、いつ頃に今の武士沢になったのかは今後の課題とする)

hrcoo75.hatenadiary.com

"今後の課題"――そう言いながら未だに手を付けられていないのが、毒沢から武士沢への変遷である。毒沢と武士沢の関係性が分からなければ、我が最上の推しである武士沢騎手が名字として持つ『武士沢』への理解も深められないままではないのか。そう思った武士ヲタ一行は可能な限りで調べていくのであった――。

 

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ちなみにこれは武士沢騎手とケンブルース

 

三戸町と武士沢

武士沢騎手の出身地は三戸町である。だが自分が三戸町出身でも在住でもない。三戸町民になったことのない人間が三戸町を知るにはどうしたらいいのか。三戸町に行くにしても、2022年1月*1現在、オミクロン株がどうのこうのって世の中はまだコロナ禍が収まっていない。近場で三戸町を知るには……と三戸町史の存在を思い出し、頼みの綱の都立中央図書館に行こうとしたが、まん延防止等重点措置が実施され、都や県境を跨いで仕事以外の用件で移動することが自分の心情的に難しくなってしまった。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

 

あるんですわ三戸町青森県青森県史デジタルアーカイブスシステムってやつが!
青森県史を編纂する過程の調査で収集した資料を同県は"「青森県デジタルアーカイブス」を構築し、県民をはじめ皆様が気軽に県史の文章や資料の検索、資料画像の閲覧ができるように"取り組んだ。そのおかげで、こうやって遠く離れた地からでも資料の閲覧が可能になった。圧倒的感謝である。

 

さあ、かくなる上は、読むしかないってことだ。近所の図書館から児玉幸多著『くずし字用例時点』を借り(大学で古文書を研究するサークルに所属していた時に使っていた同書は手放してしまった)(いやほらだって武士沢騎手への思いが高じて古文書をいま再び読むとは思いもしなかったんだわ)、AIくずし字認識アプリ『みを』を自分のスマホにインストールする等々、思いつく限りの手段を講じてデジタルアーカイブスに向かっていった。

 

………………撃沈。

 

まず、数が多い。そりゃ文書"群"だもの、多いわ。文書群カテゴリから三戸町に関係しそうな文書群を見てみると大体以下の通りである。丸括弧内は文書数を示す。

計800以上の古文書から「武士沢」「毒沢」の単語を探し出していくってのかいお前さん……!?

それぞれの地域を見ていくと上から順に佐藤左重治家は八日町、米田家は貝森村(現在の貝守?)、小笠原家は梅内で、田中氏収集文書は解題を見ると三戸町八日町ほか三沢や六ケ所村など各地域の文書を収集していたようだ。八日町・貝守・梅内、そして斗内武士沢を地図上に落とすと下図になる。ちなみに貝守には毒久保(ぶしくぼ)という地名がある。

 

 

ち、近い……? いや近くはない……? 現代の感覚と当時の感覚は異なるし、おそらく村や領知の関係もありそうだから何とも言えないが、何か関係することは書かれているのかなあ、と不安になる。

 

そして、そもそも、読めない。「これ毒沢じゃないか……?」と思う文字があっても本当にそうなのか、逸る気持ちからそう見えているだけなのか、自分の読解力不足で判別が付かない。

たとえば。小笠原家文書におそらく田畑の所有者を書き留めたのではないかと思われる資料があり、その斗内村の部分を見ていくと「毒沢川原」と書かれているように読める箇所があった。が、しかし、現在の三戸町斗内に「毒沢川原」や「武士沢川原」は無さそうである。とはいえ斗内武士沢は熊原川沿いにあるからかつて「毒沢川原」と称されていたとしてもおかしくはないだろう。他に記述があるものでも中堤川原や坂中川原(現在は中堤や坂中の小字なら存在する)もあるし……という感じで、そうかもしれない・そうじゃないかもしれないの間で結論が導き出せない。つ、つらい!

 

 

名字と武士沢

話を変える。

秋山、勝浦、江田、松田……と挙げればキリが無い名字は現在十数万種ほどあるらしい。『日本姓氏大辞典』*2には名字は由来によって33種の型に分類できるとしている。地名に由来する地名型や職業などに由来する職名型など、様々な由来があるようだ。このうち地名型は基本的なもので最も数が多いとされている。

というと、同じ地名が存在する武士沢も地名型ではなかろうか。同書を確認すると、武士沢の分類はやはり地名型になっていた。他の図書*3を見てみると武士沢の説明は「青森県の名字で、三戸町に集中している。騎手に武士沢友治(ぶしざわ・ともはる/青森県出身)がいる」となっていた。ご存知の通り武士沢騎手は青森県三戸町出身で、武士沢という地名は東北に点在して三戸町にも存在する。だとすれば武士沢はたしかに地名由来だと考えていいのだろう。

 

でも地名由来ならもっと武士沢姓居てもいいんじゃないの?

 

 

地名分布と武士沢

日本全国すみずみまで調べられてはいないので確定とは言えないが、武士沢が付く地名は8ヶ所、毒沢は2ヶ所、附子沢または附子ケ沢は2ヶ所存在する。

 

武士沢(青)

  1. 青森県南津軽郡大鰐町八幡館武士沢
  2. 青森県三戸郡三戸町斗内武士沢
  3. 秋田県北秋田市脇神武士沢
  4. 宮城県伊具郡丸森町武士沢
  5. 福島県伊達郡国見町大木戸武士沢
  6. 福島県伊達市保原町柱田武士沢
  7. 福島県郡山市三穂田町富岡武士沢
  8. 福島県伊達郡川俣町西福沢武士沢

毒沢(赤)

  1. 山形県尾花沢市毒沢
  2. 岩手県花巻市東和町毒沢

附子沢または附子ケ沢(紫)

  1. 秋田県横手市大沢附子沢
  2. 宮城県宮城郡松島町桜渡戸附子ケ沢

おまけ(灰色)

  1. 岩手県花巻市大迫町内川目
    ※かつて武士の沢停留所が存在した
  2. 福島県伊達郡川俣町秋山ブシ沢

河北新報『とうほく 地名の泉』で地名は漢方薬の附子=トリカブトからではないかという説が挙げられていたため、武士沢のほか毒や附子も今回は含めてみた。これらは東北に集中していて、関東以南にはほぼ*4無いといっていいと思う。

トリカブトが地名の由来となっているのであれば、関東より南の、平野部には無くても山間部に存在していそうな気がするけど、どうして東北に限られているんだ……? と頭に疑問符を浮かべながら、最近の週イチ(たまに隔週)の楽しみになっている和風闇鍋ウエスタンな某漫画の最新話を読んだ。金塊の行方、どうなるのかな。

……と話が逸れたけれど、武士沢や毒沢が東北に限られているのはアイヌ民族が矢の毒にトリカブトを用いていたといったような狩猟などの文化が関係しているのかな、と漫画を読みながらぼんやり考えている。古代、東北地方の人々のことを蝦夷(えみし)と呼んでいたとか大和政権がどうとかっていうあの辺りを考えると、なんとなく納得できるような、微妙なような。

 

武士沢同士の繋がりはどうだろうかと地図上に落としてみると、大まかに見ると国道4号もしくは国道7号に沿っているように思える。国道4号日光街道奥州街道、国道7号は羽州街道のルートのようだ。街道沿いに伝播していったのかと思ったがしかし秋田県横手市大沢附子沢がぽんと外れている。謎だ。大沢附子沢は最初『姓氏家系大辞典』*5の「毒澤」項にある

陸中、羽前等に此の地名存す。〃は前者和賀郡毒澤邑より起る。戰國の頃、毒澤伊賀あり、和賀氏と通じ、南部家にあたる。

この「和賀郡毒澤邑」かと思ったが、和賀郡ってもしかして岩手県花巻市東和町毒沢のほうだな……もしかしなくても毒沢城だな……?と振り出しに戻ってしまった。うーん、謎だ(2回目)

 

また、自身の調査不足で曖昧な段階ではあるけれど、地名に「沢」を使うか「谷」を使うかで東西で差があるらしい。西日本は「谷」が多いそう。曖昧とはいえ、これらを総合すると、トリカブトの毒を使用する文化圏+山間部の川を示す地名が東北に限られている理由が見えてくる気がする(じゃあ毒島姓はどうなんだっていうツッコミはやめてネ!)

 

それなら地名由来とされる武士沢姓が少ないのもしょうがないか。

 

漢方薬の附子=トリカブトではないブシとして、『姓氏・地名・家紋総合事典』*6の「ぶし」項を見てみると、"仏師、毒、武士などに当用。河岸段丘などの小平地。"と書かれていて、関連地名に"三戸町大字斗内字武士沢"を挙げている。『三戸町史』には縄文時代後期とされる武士沢遺跡について載っており、立地環境として"熊原川の右側河岸段丘上に位置し、氾濫湿地帯(現水田)に接する緩斜面先端部に営まれた遺跡と思われる。"との記述がある。ブシ、色んな顔を持っているじゃあないか……。

 

民話と武士沢

三戸町を訪れた際、偶然にも地元の方のご厚意で武士沢にまつわる話を伺ったことがあった。その方によると、南部藩の家来がいて、秋田から攻められた*7ときに湧いている水に毒を盛ったといった話だった。そこから毒沢という、と。

これに少し似た話だと、貝守の毒久保(ぶしくぼ)は毒矢に使用した附子の入った壺が土中から出てきて毒久保というようになり、泉が湧いているが住民はこれまで飲用にすることはなかったという民話が『三戸町史』に集録されている。

現時点では三戸町の上記2つの話しか把握できていないが、他の武士沢などにもこういった話があるのだろうか。もしあったとしたら、やはり毒に関係しているのだろうか。有るか無いか機会を見つけて調べてみないとな、と思う。

 

 

とか色々想像……というよりも妄想を膨らませて、まあ深く考えず毒沢の字面が良くないから同じ読み方をする別の漢字を当てて武士沢にしたでFAでしょ、と囁いてくる自分をほっといて、思うままに書き連ねてみた。何か分かりそうなでも何も分からなそうな、「で、結局何なのよ?」という状態から抜け出せないでいる。己の知識不足・調査不足も痛感した。なんかもう武士沢がライフワークになるんじゃないかと思い始めてきた。何か分かるのか、分からないままなのか、どうなるのだろう……。武士沢のこと、もっと知りたい、もっと分かりたいんだけどな……

 

……

 

……

 

くどい!!
謎が増えようがどんなに時間がかかろうがかまわぬ
最後に武士沢のことがわかればよい!!

 

 

 

*1:この記事を書き始めたのは2022年1月だった

*2:丹羽基二、『日本姓氏大辞典 表音編』、1985年

*3:森岡浩、『難読・稀少名字大辞典』、2007年

*4:"ほぼ"と付けたのは山梨県に「暮武士沢(ぼうしざわ)」がある? 本当にあるの? みたいな未確認情報をちらと目にしたため

*5:太田亮、『姓氏家系大辞典』、1981年

*6:丹羽基二、『姓氏・地名・家紋総合事典』、1988年

*7:「秋田から攻められた」というのが何を指しているのか、当時のメモから抜けていたので詳細は不明