パンだ

ゆるくまったりと好きなことを好きなように

2021年のジャパンカップ

引退レースとなったジャパンカップのゴールをコントレイルは先頭で駆け抜けた。私の影響で競馬を始めた夫にとって、コントレイルは最初の応援馬であり、初めて見る三冠馬であった。己の前方にいる競走馬みなを抜き去っていくコントレイルの走りにすごいすごいと声を上げ、ゴール後「勝った!」と両手を突き上げた夫は興奮冷めやらぬまま隣で観ていた私の手を取った。夫はゴール後の昂りを落ち着かせるかのように大きく息を吐いた後、コントレイルが菊花賞を勝ったときのように目元を拭った。私はその姿を愛おしく感じ、コントレイルが強い姿を示したことと同じくらい、彼がこのジャパンカップを観ることができたのがとてもうれしかった。

競馬は、1頭の競走馬を応援していたら、こういうこともあるのだ。有終の美を飾るという表現だけでは物足りないこの感覚。良いレースを観た、と浸っていたら、夫は「こっこ(私)のウオッカダイワスカーレットのあのレースみたいに、俺、このジャパンカップ忘れないと思う」と伝えてくれた。その言葉を聞いて、得も言われぬ感情が私の胸のうちに広がった。うれしい、とか、なんだか照れくさい、というような。何かのたびに2008年の天皇賞・秋で競馬にのめり込むようになったと喋ったりレース映像を観たりしていたから、私のそのレースに対する特別な感情は夫も知っていたのだと思うが、このジャパンカップでそれが思い浮かんだことと、「ああ、こういうことなのか」と感じたであろうことが、競馬を観続けてきた私にとって何よりだった。安堵感にも似ているかもしれない。

また、その日の夜、一緒に洗濯物を干しながら、夫は「応援する馬がいるって感覚がわかったかも」とも言っていた。「どんな感じだった?」と問うてみても具体的だったり明確だったりする返事は戻ってこなかったけれど、それで良いのだと、合っているのだと私は思う。私自身もきちんとした言葉に表せないから。

応援している競走馬がいて、レースが楽しみで、勝ったらそりゃもううれしくって、負けたらもちろんくやしくて、でも無事に走りきって戻ってほっとして、次のレースも楽しみで。なんだかうまく言えないけれど、そういう1頭が自分の心のうちに居る。夫にとってそんな存在がコントレイルだったのだろう。コントレイル引退後も競馬を観ていくはずだが、この先そういう競走馬に出会うことはあるのか、出会えるとしたらどんな競走馬なのだろうか。コントレイルのあのジャパンカップはすごかったね、と時々思い出して語り合いながら、この先も夫と一緒に競馬を観ていけることを願う。