パンだ

ゆるくまったりと好きなことを好きなように

2021/08/25 徒然

気付いたら引っ越して1年が経っていた。1年間も自分以外の人間と同じ屋根の下で生活を営んでいたと思うと感慨深い。お、おお……まじか……といった具合だ。ひとりの時間を持てないと正体不明の焦燥感というか、閉塞感というか、しんどくなる自分がこんなこと耐えられると思わなかった。
と言いたいところだが、1年もの間を破綻せずにやってこられたのは相手のおかげで、自分は相変わらず共同生活に向いていない。三つ子の魂百までとはよく言ったもんだ。

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先日ケーキを食べた。1年間のお疲れさまとありがとうと、これからもよろしくの気持ちで夫が買ってくれた。一口もらったモンブランも、自分の分のフロマージュ・クリュも美味しかった。
今回は近所のケーキ屋さんに行くというのがわかっていたからこのケーキが食べたいとリクエストしたけれど、普段甘いもの買ってきてくれたりするときも、自分のチーズ好きを知っていて、チーズケーキやそういったものを選んでくれることが多くて、とてもうれしいし、そういう気遣いできるのは自分に無いところだから尊敬する。

 

あと、ここのところ、過去の自分が今の自分を作っているというより、今の自分が過去の自分を作っているような感覚がある。まあよくある話だけれど両親は別居していたし、そこから同居したけれどやがて離婚に至ったし、同居中でもあんまり良い記憶は無い。両親を見ていたことと、自分の性格と失敗もあって、他人と生活や時間をともにすることに良いイメージは無かった。
ただこのさっき挙げた「両親を見ていたこと」って結局自分に都合のいい理由付けなわけで。過去が今を作っていることも重々承知しているけれど、自分ができない、というか、やろうとしないことに尤もらしい理由が欲しいから過去を見ているんじゃないかな、と思う。「やろうとしていないこと」は今の自分が「やろうとしない」と決めただけなんだから、別にそれでいいじゃん、というね。まあ、過去に理由となる出来事があればそれを使おうと何しようとその人の自由だけれど。

 

ちなみに自分はお化粧など自分を磨くことをろくに覚えようとしなかったのは過去の出来事のせいにしている。忘れもしない……と言いたいけれど何歳頃のことか覚えていないが、池袋で通りすがりの男性に「すっげーブサイク」と言われたこと。幼心に衝撃を受けたのは覚えている。
まあ、今となってはたしかに不細工だわ、と不正咬合だの天パだのパーツの配置だの骨の歪みだの体型だので納得できるけれど、あの頃はすんなり受け入れることなんて不可能だった。ひょっこりその男性が現れて「元気そうじゃん、良かった良かった」なんて言ったもんなら1発や2発はぶん殴ってやりたいぐらい、まだ根に持っている。そりゃそうだ、刺さると分かって言葉を発した、あるいは意識せずとも言葉で刺してしまった先の人間がいくら元気そうでも「良かった良かった」とは普通言わないし、言われたら腹が立つ。
とはいえこれも、今の自分で過去を活かせなかった悪い例だ。「なにくそ」と思って、見返してやるっていう気持ちでもいいから、自分をなんとか良く見せる、ダメなところはカバーするようなスキルを身に付ければ良かったんだろうな。

 

言葉が刺さるといえば、いまだに恨みや憎しみのような負の感情を抱き続けてしまっている言葉がある。そのエネルギーがもったいないとわかってはいるけれども、一言ひとことが呪いのようにのしかかっていて、苦しくてしんどくてゆるせない状態だ。いやー、無駄、ほんとに無駄。しかし、事あるごとにその言葉がふいに頭を掠めてくるのだから心底参ってメンタルぐずぐずになってしまうのだ。しんどくなっても「今のこの環境を選んだのは自分。だからしんどいのは全部自分のせい」と、しんどいところに更にしんどさを重ねてしまう。
まあでも幸いなのはブサイクと言い放った男性のようにその言葉の主がまったく関わりない何の付き合いもない赤の他人であること。刺したことも刺されたことも自分にしかわからないし、ひょっこり現れて「元気そうで良かった」なんて言われることもない。今もまだずっとしんどいのに何が元気そうで良かったってどの口が言うんだ、って腸煮えくり返る可能性も皆無。それだけはラッキーだった。

 

気付いたらまた愚痴ってしまった。年始に立てた目標「負の感情は紙に書き出す」が実行できていなくて反省の日々。いずれ自分も己がその場を去ることに納得できないようになりかねないのでそうなる前に、よしそれじゃ自分が退場しよう! ブログ閉じてツイアカも消そう! と今まで閉鎖・削除していたのだから、そのまま消えておけば良かったのだが。まあ、しばらくまた自分のそのみっともなさを晒し続けるということで。